うちの子の友達が、ちょっと変わっている。
わがままで、人の話を聞かないし、夜遅くまで平気でうちの子を連れ回そうとするし、執拗にうちの子に突っかかってきたり、喋ってる内容が意味不明で、個性的過ぎて何を考えてるのか全く分からない。
その子はもしかしたら「発達障害」かもしれません。
もしそうであれば、どう接すればいいのか?
僕は、もしかしたら「発達障害」かもと思われていたその子―――、発達障害当事者です。
僕がこどもの頃に体験したお話を読んで、少しでも発達障害についての理解が深まり、どう接すればよいかのヒントになればと思います。
こんな風に接してくれたらなと、当時感じていた思いもふまえてお伝えします。
僕から見た「僕」とは?
僕はADHD(注意欠陥多動性障害)、ASD(自閉スペクトラム症)、LD(学習障害)があります。
はじめからわかっていたわけではなくて、大学のカウンセリングを受けていたら専門の病院にかかることを勧められ、そこで初めて診断されました。
僕は素直で優しい
素直で優しいと言うと完璧な人間のように思いますが、もちろんそうではありません。
素直で優しいからこそ困っている事もあります。
ただ自分の欲望に素直なだけかもしれませんが、
他人に優しいし、自分の意見よりも他人の意思を尊重しがちです。
後から「よく考えたらこれ僕がやりたかったことじゃないな」と気がついてがっかりしたりします。
例えばお金がなくて大学に行けない友達の代わりにその学科に行ってあげたりしました。(結局興味がなくて中退しましたが)
そして、時には自分の立場や命よりも、この「素直」「優しい」が優先されるため、仕事を頑張りすぎて、倒れてしまったりします。
誰かを傷つけたいわけじゃない
「人を傷つけたり悲しませるのはいけないこと」というのは、自分が傷つけられたり悲しませられたらいやだから分かるし、やりません。
けど、何が人を悲しませる行為なのか分からずにやってしまうことは多いです。
「忘れた」ことの証明ができない

教室内で飲食禁止なのを忘れるボク
僕の小学生時代のあだ名は、ニワトリでした。
なんでもすぐに忘れるからです。
とにかく僕は忘れます。
書いておこうと思ったらきりがないので、書かないでおくと忘れる。
やかんに火をかけていたこと
ラーメンを茹でていたこと
午後三時から出かける予定だったこと
学校に行くというのに教科書を忘れる
旅行に行くのにサイフを忘れたこともある(しかも、到着してから気付いた)
書いておくと、その書いたことを忘れる。
嫌でも目につく所と言えば手の甲しかないが、手の甲に書くとカンニングだと間違われ、また先生に叱られる。
専門的に言えば脳の「短期記憶の少なさ」が関係しているらしいけど
でもその「忘れた」ということが、分かってもらえないのが悲しいです。
人間、普通、そんなに忘れるわけがないので、
「忘れたふりをしている」「しらばっくれている」などと疑われる。
こうなるともう救いようのない泥沼に身を置くことになります。
なんと言っても、証明のしようがない。
忘れたと言っても信じてもらえない。
悪人だ、嘘つきだと罵られ、見下される。
こんな悲しいことがあるでしょうか?
こんなことを毎日言われて、闇に取り込まれない子供がいるでしょうか?
こうして僕らは「悪い人」になっていくのかもしれない。
「俺がこんなに悲しい思いをしたんだから、お前らだってこのくらい可愛いほうだろ?」と、他人への無共感と重なり合って「悲しみ」の価値観が歪んでいく。
そう育ってしまう前に、大人にはもう少し考えてもらいたい。
忘れたり失敗したりした結果だけをただ叱り続けるのではなく、忘れたり失敗してしまう原因やプロセスが何なのかを考えて言葉をかけてほしいです。
実は、「こだわり」に一番苦しんでいるのは僕自身
「こだわり」は、啓示やひらめきのように降りてきます。
「白線の上だけを歩いて家に帰らなければならない」
そうすると玄関前まで白線が続いてなければ一生家に帰れません。だからあきらめるしかありません。
僕はその「こだわり」と「現実」の狭間でいつも胃をキリキリさせています。
どちらの結果も辛いのです。
だから本当は同じ服ばかり着たりしているのも、本人は辛いのかもしれません。
だけど、こだわりが勝ってしまう。
こだわりをあきらめた時の「焦燥感」に比べれば、こだわって体を酷使したほうがまだマシなのです。
僕は小学生の頃、「ポケモンカード部」を作りたかった。
けどすでに「ボードゲーム部」というのがあって、誰も彼も「ボードゲーム部でいいじゃん」と言った。その正論にいつも苦しみました。
僕は「ポケモンカード部」が作りたかった。
そうでなければそのボードゲーム部でポケモンカードをしているかどうか分からないじゃないか、と言ってもみんな聞く耳持たない。
正論だと分かっていても、諦められなくて、苦しくて、悔しくて、ほんとうに辛かった。
ただ、ちょっと許可さえしてくれれば、こんなに辛い思いをする事はないのに、なぜそれをしてくれないんだろう、と周りをものすごく憎んだ。
するとみんなと仲が悪くなった。
みんなと仲良くやることよりも、こだわりが絶対優先になってしまうのです。べつに、仲悪くなりたいわけじゃないのにさ。ていうか、みんなで仲良くポケモンカードがしたかったのにさ。
僕は先天的にいつも不安
先日、とあるサイトで「発達障害はセロトニン不足」という記事がありました。
セロトニンは脳内で働く精神安定や睡眠にかかわる物質らしく、僕が何となく分かったのは「発達障害者は先天的にいつも不安」だということです。
おそらく、健常者がちゃちなお化け屋敷に入った時くらいの恐怖感が、生まれつきのデフォルトなのだ。
実際、僕はお化け屋敷というのは大の苦手で、昔は友達に誘われ、料金だけ払って10歩くらい入った所で発狂して引き返したりしていたりしていた。
バカらしいからもう二度と行かない。
だからその中で、少しでも安心しようと、自分の安心できるものにこだわったりするのかもしれません。
お化け屋敷の中で、みんながお互いに手を取り合うみたいにさ。
叱られない環境の大切さ
「僕はこのままグレて、ニートになって、親が死んだらそのままのたれ死ぬだろうな」と思ってました。
その予想は当たっていて、僕は今も就職口が見つかってません。ただ、グレなかった。
それはきっと、通っていた私立中学校が楽しかったおかげです。
僕は公立中学でいいと思っていたけど、母親がどうしてもと言うので受験した私立中学は自由度が高く、やりたい事がなんでもできた。
当時、ボイスドラマを制作したくてマルチメディア部を作った。
文化祭以外でも、やってみたいと思ったイベントを開くことができた。
ラジオ公開収録、服の寄付募集、新商品を開発する授業で開発したみそカツラーメンの試食会…などなど。
勉強は、数学と英語と物理と技術の、できるものばかり伸ばして、苦手な国語と体育を無理にさせられることはありませんでした。
初めて勉強が楽しいと思えた時期でした。
そもそも先生が生徒を厳しく叱るというような気風がなく、僕もほとんど叱られなかったからかもしれません。(クラスメートには変人だと思われて避けられてましたが…)
育て方の問題
発達障害とはいえ、善人ばかりではありませんし、当然悪人ばかりではありません。
ひとえに育て方の問題だと思います。あと知能指数かな?
責められてばかりで育てば、どんな善人もひねくれます。
「暴力は悪いことではない」という環境で育てば、当然暴力的な人間になります。
「勝てばいい」と教えられれば、勝つことしか考えません。
それは発達障害とは別の、人格や倫理観の問題です。
ただし発達障害者は素直だから、「テレビでやってたから」という理由で人を傷つけることもあるかもしれません。テレビばかり見すぎればね。
だから育て方が重要なのです。
ちなみに僕の両親もたぶん同じように発達障害があると思います。(※僕調べ)。
母はその(他人への想像力がない)おかげで「裏表のないチャーミングな人」という個性を生かした接客業の仕事をしていたし、父は物事に対する強いこだわりを生かしたエンジニアをしています。
ただ二人ともやはり一般世間のことは理解できず、理解できないあまり嫌っている傾向がありました。
「お前は一般人のように何もできない人間になるんじゃない」とか、「手に職をつけろ」とか、「一度決めたら曲げるな」とか、いい方向に進めば強みなのですが、この教育のおかげで僕は他人の「クラスメートと仲良く」とか、「優しく」といった教育を全く受けずに育ってしまったため、一時期友達が0人になるという悲しい思いをしました。
大学生になって発達障害だと診断された今も父は「発達障害なんてただの甘えだ」と言い未だに理解してくれていません。
おそらく父は自閉症スペクトラムがあります。父の時代はそれでも強く生きていかなければならなかったのに比べれば、「甘え」に見えるかもしれません。
このように、親も発達障害があったりするのに、親だけで子どもを善人に育てあげるのは無理だろう。
それなら、先生や、近所の人だっていいから正しいことや道徳的なことを教えてほしい。
周りの大人たちに正しく道徳的に育てられ、かつ、認められているという安心感があれば、発達障害者は持ち前の素直さと優しさを最大限に有効利用できると思います。
「周りの人の言葉」がとても大事
僕らは悪いことをしようと思っていません。
私利私欲のためにルールを軽視してしまうことはあるかもしれませんが、それは「=他人が傷ついてもいいと思っている」わけではありません。
その二つを同時に考えられてないだけです。
ちょうちょを追いかければ迷うと思っていないのと同じです。
目が見えない人が道を踏み外してしまったり、人とぶつかってしまったりするのと同じなんです。
だから、「周りの人の言葉」がとても大事なのです。
間違ったことをしていたなら、
「これは、こうなるからやめたほうがいいよ」
「こうすると、この人が傷つくよ、なぜなら、こうだからだよ」と教えてほしい。
そうでないといつか、ちょうちょを追いかけて、手すりのない吊り橋を走って渡っていくことになる。
発達障害者は悪い人?
「いい人」ってなんでしょう?
就職活動などで「自分は御社に奉仕します」とアピールできる人は「いい人」?
それって裏を返せば、「いい人」アピールできない人は「悪い人」ってことになる。
いい人とか、悪い人とかいうのは、他人に対してどう思うかで発生する定義であって、僕は僕でしかない。
そんなわけで「いい人」の必要性が分からない。
普通は、「お行儀よくする」とか、「お世辞を言う」とか、「身だしなみに気を使う」とか、そんなのが「いい人」だろう。
あと「他人と話すときにマスクを取る」とか、「コンビニやスーパーでカバンをゴソゴソしない」とか? そういうのが「他人への配慮」なのだろうけど、僕らはそれをしないもんだから、はた目には悪人と区別がつかない。

真夏にコートを着ていて職務質問されるボク
僕は触覚過敏があるので、何かとぶつかったり触れたりするのが苦手です。
子供の頃は真夏でもコートを着たりしていたせいで、何度も警察に職務質問されました。
世間的に言う「常識」や「他人への思いやり・配慮」といわれる行動ができないため、悪い人を通り越して、怪しい人物、犯罪者と同等に思われてしまう。
「ホントに悪人だったらもっと隠れてやるだろ」「ホントの悪人はもっと善人面してるだろ」という僕の言い分は聞いてもらえず、額面通りに受け取られ、疑われて、冤罪を被ってしまうかもしれない。
無罪を証明する手段のない冤罪だったり、警察の取り調べが執拗だったら僕らの人生は終わりだ。発達障害者と悪人で刑務所分けてくれないかな? とも思っています。
でも実際、僕は「悪人」ではないが、「犯罪者」かもしれません。
結論を言うと、警察には二回連れて行かれています。
1回は自転車放置だった。これはまぁ、パンクしたからやむなく放置してしまっただけだけど。
次は、職務質問されたときにナイフを持っていたから。
もちろん誰かを傷つけようと持ち歩いていた訳ではない。
当時、鉛筆をナイフで削るのがマイブームで、父親がくれたナイフを持ち歩いていた。
小学生の時は、学校も親も誰も僕が発達障害だとは思っていなかった。
一日三回以上怒られて当たり前の子供だった。
だから、「ルールを守っていない」という事実だけを見ると、犯罪者になってしまうのかもしれません。
僕のせいで悪い子になる?

興味本位でどこでも探検するボク
実際、社会のルールが守れない子供と遊ばせるのは親的に不安だろうなと思います。
そういえばよく「あの子とは遊んじゃだめってかーちゃんにいわれた」とか、「あの子が来るなら行っちゃ駄目って言われた」とか、友達に言われました。
たしかに僕は健常者ではない。
だから僕と付き合うことでその子が悪い子になってしまうのか?
当時、僕を避けたその子が現在どうなったかは知らないですが、大事なのは親の道徳教育だと思います。
悪い子になってしまう原因の全てを僕のせいにするのはおかしいです。
幼い頃から人を差別することを教えてしまっていると思います。
いろんな人がいるって経験させなきゃいけない。
世の中、健常者ばかりいる世界じゃない。
いろんな人がいるって経験して、その上でその子がどう育つかが大切だと思います。
放っといてほしいけど、避けないでほしい
「いい大人が」というこの言葉を使う人は、この言葉で傷つく発達障害者がいることを知らない。
大人だったらできて当然?
なぜできないとか、なぜやらないとか、できない理由を根掘り葉掘り聞かないでほしい。
こっちだって、望んでそう生まれたわけじゃない。
生まれつき目の見えない人に、「目が見えないってどんな感じ?」と聞いているのと同じ。
もし僕がその立場なら「目が見えるってどんな感じ?」って、自分が一番知りたいよって聞き返すと思います。
ただ、「ここをこうしなさい、なぜなら、こうだから」と、分かるように指導してくれたらいいだけなのに。
自分でもわからないことを問われ、責められ続けた僕は大人になるころには他人が怖くて、憎くて、指導を受けられる状態ではなかった。
他人がみんな怖くなっていて、誰も信じられなくなっていた。
友達みんなも僕を避けていた。
関わり合いになりたくないとみんなが僕を無視していた。
「できてない」「おかしい」などと言えば僕が傷つくし、もしかしたら逆上してくるかもしれないと、みんなビクビクしていた。
発達障害という目に見えない脳のかたよりに、いったいどこの赤の他人が寄り添ってくれるって言うんだろう。親でさえ僕をガミガミ叱るだけだっていうのに。
それに「放っておいてくれ」と言っているのは僕自身なのだ。
そんな僕が「逃げないで」「行かないで」「避けないで」などと言えるわけがない。
だけど本音は、不安と寂しさでいっぱいなのだ。
「放っておいてほしいけど、避けてほしくもない」
こんな難しいこと、大人だってできないだろう。
こだわりや仕方なさと、認められたい寂しさやルールの狭間で一番混乱しているのは僕なのだ。
ここまで来るともう、「発達障害者が自分一人で己をカバーするのは難しい」という結論になることが分かっていただけるのではないでしょうか。
一人で己をカバーするのは無理ならば、やはりそれは間違いなく「障害者」なのだろうな、と思います。
「個性的」で済む問題ではないのです。
だから周りの人に助けてもらえたら、どんなによかっただろう。
みんなが発達障害の正しい知識を持ってほしい
子供の頃にちゃんと世間が発達障害への理解があればどんなによかっただろう。
発達障害という言葉すら知らない人達から「努力が足りないせいだ」と言われて僕は育ってきました。
だから、努力さえすればみんなを見返せる、絶対みんなより遅れてはダメだ、劣ってはダメだと必死に勉強や、生活についていっていました。
なのに、今になって
「おまえは障害者だから努力しても無駄。頑張っても出来ないやつだったんだよ」
そんな風に知らされ
今までの努力が全てが無駄になったような、バカにされたようなショックを受けることは無かったかもしれない。
どうかみんなが発達障害の正しい知識を持ってほしい。
子供のうちから、価値観が歪む前に発達障害だと気付き、
周りが理解して、信じて、正しく指導して、
優しく、優しくフォローしてくれますように。
ただ、もし僕が今後そんな子に出会っても、多分優しくしてあげたりできないだろうな。
だって僕はそういう配慮してもらえなかったから。
今、この記事を読んでくれているあなたならきっと、優しくフォローしてくれると願っています。
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