私は自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)とADHDの複合型と共に30年間生きてきました。
とても長い旅路のように感じます。
幼少の頃から悩んだり、時にはとてもつらいこともありました。
正直な気持ちを言うと、ここまで生きてこられたことが自分でも信じられません。
発達障害の当事者である私が、子どもの頃にどういう風に自身の問題と向き合い、何を考え、また何を感じていたのかを、当事者のみならず、親御さんや周囲の人たちに少しでもお伝えしたいと思い、記事を書きました。
顕著だった発達障害の特性
私の場合、自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)とADHDの複合型であるため、特性としてもどちらかに偏ったものではありません。
幼い頃、主に下記のような特性が目立ちました。
ひとつずつ、顕著だった特性について詳しくご紹介します。
📌 自閉傾向
遊ぶ時、勉強する時、ごはんを食べる時、登校する時……日常生活のありとあらゆる場面で、自分だけが感じられる「自分だけの感覚」がありました。
それは私にとってとても大切な感覚であり、その感覚でいられる時間は安心に近い気持ちでいられました。
また、それは自分だけの世界であり、そこに周りの人たちが入り込んでこようとすると私は癇癪を起こしてしまいます。
例えて言うなら、面白いテレビに熱中していて、別の誰かが突然テレビの電源を切ってしまった時が近いかもしれませんが、正確に表現することは難しく、健常者がこの感覚を理解することは出来ないと思います。
📌 多動性
とにかく落ち着きがありませんでした。
元気が有り余って動きまわるのとはやはり違い、じっと座っていると頭の中や全身がとてもムズムズしてきて、動かざるを得ないような感覚です。
親や先生に何度も叱られたため、なんとかじっとしていようと試み続けた結果、小学2年の頃には、座っている時は常に貧乏ゆすりをしてしまうのが癖になってしまいました。
📌 不注意
忘れ物は毎日と言っても過言ではないほど多かったです。
また、
- カバンのファスナーを閉め忘れる
- 歯磨き粉を顔につけたまま出かける
- 靴ひもがほどけていてもそのままにしてしまう
など、外見の不注意はとても多かったように記憶しています。
時にはパジャマのまま登校したり、左右まったく違う靴(スニーカーとローファー等)を履いて出かけたり、まるでマンガのようなこともありました。
そんな不注意が引き起こすトラブルの中で一番の問題だったのは、実害のある朝寝坊でした。
📌 その他
- 融通がきかない
- 空気が読めない
- 思ったことを全て口にしてしまう
などの典型的な特性もありました。
また、少し変わった特性としては以下のようなものがありますが、これらは悩むと同時に、多少なりとも役に立っているものでもあります。
📌 聴覚過敏
大勢の人がいる場所やイレギュラーな場での音はことごとく苦手ですが、その代わり、私には絶対音感があります。
ピアノ、トランペット、エレキベース、フルートなどの楽器ができます。
📌 触覚過敏
特定の布類に対し、擦り切れるまで触り続けてしまい、その間は他の物事に注意が向かず、学校の制服も買い替えが必要でした。
その反面、印刷用紙の種類を感触で百種類ほど覚えていて、就職に一役買いました。
📌 瞬間記憶・長期記憶
通常の記憶の仕方もできるのですが、写真を撮るような感覚での記憶も可能です。
通常が「頭で覚える」のに対して、瞬間記憶の場合は「目で覚える」という感覚です。
目で覚えた場合、とても鮮明な映像のような形で思い出すことができます。
これはメリットか否かは微妙ですが、テスト・受験等は全て一夜漬けでした。
また、出来事や感じたことに対しての長期記憶が長けているらしく、今この記事を通して当時の映像や気持ちを昨日のように思い出して執筆することができています。
同じように、辛い記憶も今降りかかっているかのように思い出してしまうこともあります。
障害の自覚
小学2年生の時、学校の家庭訪問で担任の先生が母に診察を勧めました。
母もなんとなく予測していたということもあり、すぐに診察を受けて様々なテストをしました。
その結果、【ADHDとASDの併発型】であるとの診断を受けましたが、両親や先生の私への対応は特に今までと何も変わらなかったように記憶しています。
私自身も「フーン?」という感じで特に意識もしませんでした。
ところが、小学校高学年になると様々な問題が次々とあらわになっていき、また、はっきりと「自分は他の人とは違う」と自覚し始めたのもこの頃でした。
とはいえ、特別な何か大きなきっかけがあったわけではありません。
学校という集団生活の中で様々な実体験が重なっていくうちに、自然と劣等感が増していったのです。
いくつか、その実体験について紹介します。
「遊ぶ」ことの難しさ
例えば、昼休みのクラスメイトたちはそれが義務かのように毎日体育館へ向かい、放課後には今日は「誰々の家に遊びに行く」という約束が毎日取り交わされていました。
大人になった今になってみれば、友達と遊ぶことを通して、コミュニケーションをしたりすることが楽しいのだ、という理屈は分かります。
しかし、小学生の私にとっては理由や目的が曖昧なものに対しての理解は非常に難しく、到底できるものではありませんでした。
そのため、
- 昼休みに体育館に行く理由または目的
- 放課後に誰かの家に行く理由または目的
これらがはっきりしていないとどうしても納得することができず、クラスメイトに遊びに誘われても断ることしかできませんでした。
私には「遊ぶ」ということ自体がとても曖昧に思えてしまい、とても難しいことだったのです。
頑張って放課後の遊びに参加してみても「空気が読めない」と言われ、気付いたらみんながいなくなってしまいました。
テレビの話題
高学年にもなると、特に女子の間ではテレビの話題が多くなりますよね。
タレントやアイドルが出演したドラマやバラエティなどのテレビ番組の話……、私はどれにも参加することができませんでした。
家にはもちろんテレビはありましたし、私以外の家族は皆揃ってテレビを見て、家族団欒の時を過ごしていました。
一方で私はその間に読書をしたり、ゲームをしたり、映画を見たりすることしかできませんでした。
理由はとても簡単で、【テレビには情報が多すぎる】ため。
特にCMはそれが顕著で、出演している人、BGMやSEなどの音、広告物などの多くの情報が、15秒という短い間隔で目紛しく移り変わっていきます。
情報選択が苦手な私にとって大変なストレスで、細部が気になるのにまたすぐに新しい情報が入ってきて、それもまた気になってしまい、テレビ番組の本編などどうでも良いといった気持ちになってしまい、集中ができません。
これは現在でも変わらず、地上波の放送はほとんど見ることができません。
しかし、BSやCS等の衛星放送や、インターネットでの放送はCMがほとんどありませんのでよく見ています。
目でする会話
クラスメイトは何も言わなくても「アイコンタクト」だけで会話をしていましたが、私にはそれができません。
それは、アイコンタクトで何を言おうとしているのか、何を伝えたいのかが全く分からないからです。
私に対してアイコンタクトをしようとするクラスメイトはほとんどいませんでしたが、稀にされたとしても、ただ苦笑いをしてやり過ごすことしかできませんでした。
また中学生になると、いじめっ子たちの間でのアイコンタクトのほとんどが「良い意味」ではないということに気付き、他人の顔を見たり、目を合わせることが怖くなってしまいました。
他人同士がアイコンタクトをしているのを見ても、もしかしたら私を悪く思っているのかもと感じてしまい、その挙句、まともに学校へ通えなくなってしまいました。
現在でも他人同士のアイコンタクトは全く察することができず、とても怖いですが、でも思春期ほどではありません。
自分に対して行われるアイコンタクトに関しては、「特に意味のないコミュニケーション」と考えて、笑顔を返し、開き直ることで、いちいち悩んだりもしなくなりました。
自分を認めるまで
コミュニケーション面での特性による困りごとと思春期というのは非常に相性が悪く、前項でも書いたように私は不登校の状態となってしまいました。
しかし、中学2年の終わりに両親の都合で転校することになったため、そこで心機一転、新しいクラスメイトたちとどうにかうまくやれないだろうか? とも考えましたが、3ヶ月も経つと結局は以前と同じような状況に陥ってしまいました。
むしろ、新しい環境でも同じようになるというのは、これはもう「私自身に原因があるのだ」と感じざるを得なくて、思春期の私はとても深く傷つきました。
勉強自体はとても好きだったので、内申点の影響が少ない公立高校を受験し、無事合格。
しかし、入学して間もなく、クラスメイトたちはどんどん距離を縮めますが、私だけがやはり馴染めません。
またつらい3年間かと思われましたが、転機が訪れたのです。
高校1年の冬、私は高校の寮で6ヶ月生活することになりました。
そこでは昼夜問わずクラスメイトがすぐ近くにいて、ひとりになる時間はなかったうえ、寝室も1部屋にふたりずつ。
そのような環境の中で暮らしてるうちに、気がつくと徐々にクラスメイトや教師、寮の職員さんなどに色々な話をするようなりました。
周囲の人がだんだん、私を「ちょっと変わった面白い子」という風に認識し始めると、それまでの関係性が嘘だったかのように、私に根掘り葉掘り、様々な話を聞いてくれるようになったのです。
それからの高校生活は非常に楽しいものでした!
それまでは、常に周囲の人々に否定されている感覚を持っていたため当然自己肯定できず、むしろ「どうして私はこんななんだろう」という自己嫌悪に支配されながら過ごしていましたが、高校生になり、生まれて初めてようやく自分という存在を認めることができたのです。
社会に出てから
社会に出ると、またしても苦悩の日々がやってきました。
大人になるにつれて顕著な特性が落ち着いてきたと自分では思っていましたが、周囲の人たちとはやはり違うのです。
最初に新卒で入った会社(ウエディングプランナー)は、わずか2ヶ月で自己退職。
その後はアルバイトで食いつないでいましたが、ちょっとしたミスを毎日してしまい、対人関係も上手くいかなくなることがほとんどで長く勤めることができません。
「手に職があればな」と考えてはいたけれど具体的に動くことのできなかった私は、ハローワークの職員さんの勧めで職業訓練校に入所し、WEBデザインの勉強を始めました。
学校は全行程で6ヶ月と短期間ではありましたが、自信を持ってデザイナーとして働くために、死に物狂いで勉強をしました。
その甲斐あって、卒業後すぐに広告代理店のデザイナーとして雇われることになりました。
無事就職を果たした私は、アシスタントデザイナーとして新生活をスタート。
ここでは、私は自分に発達障害があることを隠しませんでした。
幸い職場の人たちはとても理解が深く、紆余曲折あったものの、半年後にはクリエイティブディレクターに任命され、様々な経験を積ませてもらい、順風満帆そのもの。
今まで学べる環境になかった反動で、デザイナーとしても社会人としても思いっきり勉強することができましたし、発達障害という事実をオープンにして就労することで、本当の自分を隠さず、引け目を感じることなくいられたように思います。
しかし「きっと、ずっとここで働いていくのだろうなぁ」と思っていた矢先、またしても壁が立ちはだかることになります。
それは突然のことでした。
クリエイティブディレクターとして4年、様々なプロジェクトに携わることができ、しかもそれが楽しいと感じていた私。
その頃には、社会人になりたての頃からは想像ができないほど、自分でも信じられないくらいの仕事人間と化していました。
発達障害を持っていても、健常者の皆さんたちと一緒にこんなに一緒に働けるとは思ってもみなかったからです。
とにかく、嬉しかったのです。
就職して4年を過ぎた頃、赴任していた事業所の業績低下に伴い、コスト削減のためにオフィスの縮小工事が入ることになりました。
当初は何とも思わなかったこの縮小工事が、後に退職に至る原因となりました。
オフィスが縮小して初日の出勤……、「おはようございます」という自分の声が、やけに響いて聞こえました。
席に着き、同僚と挨拶を交わし、雑談をして作業の話をするという今まで何気なくしてきた朝のコミュニケーションでしたが、この日は違いました。
自分の声も他人の声も、とてつもない大音量に感じたのです。
原因はオフィスの縮小により反響音が拡大したことによるものだと分かりましたが、その時は途方に暮れました。
しばらくの間は耳栓をしてみたり、音楽を聴いてみたりしながらできるだけ作業に没頭するようにしていましたが、頭痛や吐き気の症状がみるみる悪化していき、ある日突然限界がやってきました。
その日以降、出社することもできなくなりました。
発達障害の特性によるものから音や光に過敏であることは自覚していましたが、顕著なものはしばらくなかったのもあり、大変落ち込みました。
あまりに突然の出来事だったため上司や同僚が心配してくれましたが、数ヶ月間の休養の間に話し合った後、退職することを決めました。
この時は周りの人への申し訳ない気持ちと、自責の念とで混乱していたように思います。
ただ、このままの環境で働き続けると、あれだけ努力して勉強を続けてきたデザインも入社後に経験させてもらって身につけたライティングも、きっと嫌いになってしまうだろうということが退職を決めた一番の理由です。
今あるのは「今の私だけ」
現在私は、フリーのデザイナー・ライターとしてお仕事をしています。
相変わらず、デザインやライティングに対しての情熱は健在で、退職した会社にも外注先としてお世話になっています。
結果としては、常々憧れていた「普通の会社員」を続けることはできませんでしたが、フリーに転身したとしてもお仕事がお仕事であることには変わりがないので、今は今でとても楽しいです。
発達障害である自分がやるべきことは、企業人として出世することでも、普通の人生に憧れて真似することでもなく、自分ができること、持っている能力を、全力で出し切ることだと思っています。
そしてそれが、多くの人の気持ちの支えや笑顔に繋がればいいなと考えながら、私は今日もパソコンに向かっています。
最後に
発達障害児は少なからず孤独を感じて生きています。
私もずっとそうでした。
しかしそれは、たったひとりで生きている故の孤独ではなく、相手の意図を汲み取れないが故の孤独です。
相手の気持ちが分からないから、独りだと感じてしまうのです。
この記事を読む誰かがいてくれるということは、きっと本当の意味での孤独ではないのでしょう。
しかしそれは、大人になった私だから分かることです。
残念なことに私のような発達障害の子どもは、良いことも悪いことも、きっちりとした言葉にしてもらわないと理解することができません。
周囲の人がいくら「あなたは独りじゃないよ」と心の中で思ったり、それをさり気なく行動に表してみても、発達障害の子どもには伝わらないのです。
ですから、もしも何かに悩んでいるようなら、ぜひ言葉にしてみてください。
「あなたを愛してるよ、独りじゃないからね」と、言ってあげてください。
言っていて照れてしまうような、ちょっと大げさなくらいで丁度良いです。
大人になるにつれて特性による困りごとが緩和すると言われる発達障害ですが、私は自分の特性に慣れたことはあっても、緩和したと感じたことは一度もありません。
それに、当事者が生きているのは未来ではなく今です。
「今」周りにいる人たちが、当事者と一緒に「今」を過ごしているんだということを、どうか当事者の心に刻み込んであげてください。
必ず、それが当事者の糧になる時がやってきます。
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