3歳の娘が「高機能自閉症」と診断され、絶望の中から見つけた希望とは?

発達障害児

子育ては、「体の成長を育む」「社会に出たときに一人でしっかり生きていく力をつける」「仕事を持ち、自力で食べていく力を身に付けさせる」ことでもありますね。

体は自然と成長していきます。

親の役割として、責任重大なことに「社会で生きていく力を育てる」ことがありますが、発達障害児にとって「社会の中で自力で生きていく」ことは非常に困難であるケースが多いのです。

人によって特性の出方が様々である発達障害。

大人になり、自分の特性に悩み試行錯誤しながらも社会の中で立派に自立し、生計を立てている人もいます。

でも、自分の子どもが発達障害だと診断された時、もしくはその可能性を疑った時、親はおそらく皆同じ不安を抱えるのではないでしょうか?

「親がいなくなったあと、この子はどうなってしまうのだろうか?」と。

ここでは、私の娘が3歳で「高機能自閉症」と診断されるまでの話と、その過程で私が感じたことや、どんなことに悩んでいたのか、絶望の中からどんなふうに気持ちが移り変わっていったのかをお伝えします。

言葉の遅れと癇癪が気になった娘

癇癪娘は酷い癇癪持ちの子どもでした。

  • 何でもないようなことですぐに怒って物を投げ付ける
  • 部屋が揺れるほどの勢いでドアをバタン!と閉める
  • 親や3歳年上の兄を叩く

言葉が遅く、1歳半検診の頃もまだ何ひとつ意味のある言葉を話せませんでした。

「ママ」という言葉すら一度も発したことがなかったのです。

その割には手が掛からない子でもあったため、その頃の私は、言葉を何も話さないことに多少の不安は感じつつも「そのうち自然に話せるようになるだろう」と軽く考えており、癇癪についても「ちょっと気の強い子なんだな」という程度にしか思っていませんでした。

娘は生後間もない頃から、私がわざわざ寝かし付けをしなくても、ベッドに横にするとそのまま大人しく一人で眠りについていたような子だったのです。

兄の時は寝かし付けに時間がかかり大変だったため、「こんなに楽で良いのだろうか?」と心配になるほどでした。

1歳半検診で「要観察」に

発達障害児子育て_1歳半検診で「要観察」に1歳半検診の案内がきたため、私は娘を連れて区役所へ検診を受けに行き、体の成長と心の成長、言葉の発達などをチェックしました。

娘は体の発達には特に問題がなく、歩き始めたのも1歳3ヵ月と少し遅めではありますが問題になるほどではありませんでした。

しかし、心の成長に関するテストでは散々な結果になってしまいました。

「まだひと言も意味のある言葉を話さないというのはこの月齢では珍しい」と言われたのです。

保健師は娘に向かって何度も話しかけ言葉を引き出そうとしていましたが、娘はただじっと相手の顔を見ているだけで何も話しませんでした。

他にも、次のように娘にはできないことがありました。

  • 動物や乗り物の絵を見せて指差しをさせるテストもひとつもクリアできない
  • 積み木のテストでも積み木をひとつも積めない

家では積み木でよく遊んでいたのですが、娘には保健師の指示が把握できていないようでした。

最後に保健師との問診で、娘には少し発達に心配な面が見られると話がありました。

しかし、まだこの時点ではそんなに深刻な話しぶりではなく、「2歳になってから急に話し始める子もいますので様子を見ていきましょう」という感じでした。

そして最後に、区役所でおこなっている「親子教室」に通ってみてはどうかと勧められました。

私はこの時点ではまだ、娘の成長に何か問題があるなんてまるで感じていませんでした。

1歳半検診で「要観察」となったにもかかわらず、よもや発達障害の可能性があるなんて夢にも思っていなかったのです。

実は、その頃仲の良かったママ友の息子さんが重度の自閉症児であり、私は発達障害について誤解をしていたのです。

その子は私の息子と同じ幼稚園に通っており、また、我が家にも何度も遊びに来ていました。

よく自閉症の子は「目を合わさない」「指差しができない」と聞きますが、娘は私としっかり目を合わせますし、2人で過ごしている時には指差しもちゃんと出来ていたので、発達障害ではないと思い込んでいたのです。

娘は確かに言葉は遅いし、コミュニケーションにも少しぎこちないところはありますが、発達障害はその自閉症の子のように見ればすぐにわかるような特徴があるものだと誤解していた私は、娘のことを「ただ少し気が強いだけ」「ただ少し言葉が遅れているだけ」としか思っていませんでした。

ただ、せっかくなので勧められた親子教室に通ってみることにしました。

そして、その親子教室ではじめて現実を知ることになるのです。

親子教室で娘の異常にようやく気付く

発達障害児_親子教室で娘の異常にようやく気付く親子教室は、親子が20組ほど集まっておこなわれました。

親子でペアになり、色々な遊びをしたり体操をしたりします。

そこで私は、他の子どもたちと我が娘のあまりの違いを突き付けられ、愕然としてしまったのです。

娘は、はじめての場所で緊張していたせいもあるのか、最初からとにかく拒否反応が強く、先生の話どころか私の話すらまともに聞けない状態で「嫌だ嫌だ」とずっと暴れて泣いていました。

周りのスタッフや他のお母さんが気を利かせてなだめようとしてくれるのですが、さらにひどい癇癪を起こしてしまい、まったく手が付けられない状態でした。

それでも教室の先生は、周りの親子と同じことを何とか私と娘にもさせようとしました。

私は他の親子と同じように、泣きながら暴れる娘を無理やり背中におんぶして、フォークダンスのような円に加わり音楽に合わせて歩いたり立ち止まったりしました。

他の子どもたちはみんな、母親の背中におんぶされて大人しくしていました。

娘の他には誰も泣いたり嫌がったりしている子はいない状況の中、娘はただただ泣いて嫌がり抵抗するばかり。

娘がいったい何をこんなに嫌がっているのか、私にはまったく見当が付きませんでした。

また、本来なら楽しいはずのこの場を、私たち親子が壊していることに居たたまれない気持ちにもなりました。

他にもパズル遊びや積み木遊びをしましたが、娘だけ心ここにあらずで、体はそこにいますがいっさいの遊びにまったく参加していませんでした。

読み聞かせただ唯一、先生が本を読んでくれた時だけは、他の子と一緒に大人しく座っておはなしを聞いていました。

この親子教室には4回ほど通いましたが、回を重ねるごとに慣れていくかと思いきや、1回目と同じことが繰り返されるだけで、結局最後まで娘はこの教室に馴染むことができませんでした。

そして、このように同じ月齢の子どもたちと一緒に過ごす娘の様子を見て、私は思い知ったのです。

他の子どもが普通にできていることが、私の娘にはできないのだ、ということを。

教室の中で娘だけが明らかに異質でした。

「やはり私の娘はどこかがおかしいのかもしれない」と、初めてそう思ったのです。

いよいよ療育センターへ通うことに

発達障害児子育てその後も保健師とたまに会って話す機会はありましたが、特に具体的な支援はないまま日にちが過ぎていきました。

そんな時、仲が良かった自閉症の子のお母さんと娘の成長について話す機会がありました。

私が悩んでいることを打ち明けると「療育センターに連絡してみたら?」と声をかけてくれたのです。

療育センターという名称すらその時初めて聞いた私に、そのママ友は療育センターは発達障害児の支援をしてくれる施設のことだと説明をしてくれました。

私はそのような場所があることに驚きました。

これまで保健師や親子教室のスタッフ、掛かり付け医からも、一度も療育センターの存在を聞いたことがなかったからです。

「じゃあ今度、保健師さんに相談してみようかな」と言うと、ママ友は「自分から直接、療育センターに電話したほうがいいよ」と言ったのです。

その言葉も私にはとても不思議でした。

私は、親子教室に通えたことは良かったのですが、そこで娘の問題が浮き彫りになったにもかかわらず、その後は野放しにされてしまったような不安感があり、とても心細い日々を送っていました。

こうしてママ友から聞かなければ、療育センターの存在なんて知る由もなかったのです。

その後、そのママ友の助言通り、早速療育センターに連絡をしてみました。

電話で面談の予約を取り、その後、療育センターで面談を受けました。

最初は月に1度程度、センターに通って先生と話をしたり簡単なテストを受けました。

3歳になった頃、とうとう「高機能自閉症」と診断され、センターの療育のクラスに参加することになったのです。

我が子が発達障害だと知った時、いちばん不安に思ったこと

我が子が発達障害だと知った時、いちばん不安に思ったこと娘は3歳になり、簡単な言葉は不明瞭ながらも発するようになっていましたが、他人がはっきり聞き取れるような言葉は少なく、まだ自分の名前すら言えませんでした。

癇癪も相変わらずで、時と場所を選ばず急に怒り出して周りに当たったり、物を投げたりするため本当に大変でした。

3歳にもなると他の健常児との差はさらに大きく開いていたため、私もしっかり娘の障害を受け入れるようになっていました。

療育センターで高機能自閉症と診断された時は、「やはりそうだったのか」と落ち込みましたが、心の準備が出来ていたのかそれほどショックは引きずりませんでした。

それよりも、私はもっと先のことに大きな不安を感じていました。

それは、「私たち夫婦がいなくなったあと、この子は一人でどうやって生きていくのだろう?」ということです。

療育センターでは多くのスタッフが、私たち親子を精神的に支えてくれました。

とても親身に接してくださり、親の勉強会も頻繁に開いてくれて、そんな彼らのサポートに心が救われました。

でも、私が娘の将来を悲観して彼らに相談しても「まだ今の段階からそんなこと考えても仕方ないですよ」と言われ、このような子どもたちに、どんな将来が待ち受けているのか具体的な話をしてくれる人はほとんどいませんでした。

娘は、言葉が遅く癇癪持ちで人に心を開くことが苦手……、つまり、人とのコミュニケーションに問題を抱えていました。

しかし、知能検査では特に問題はなく、おそらく言葉もそのうち追いつくだろうと言われていました。

療育センターで同じクラスの子は、似たようなタイプの子ばかりで、お母さん達の悩みも似通っていました。

  • 小学校に上がる時、自分の子どもは普通級に行くのか、特殊学級に行くのか
  • 高機能自閉症の子が大人になったら、どんな人生を歩むのか
  • 苦労しながらも一人で生きていけるのか
  • 何かしらのサポートが必要なら、どうやってその支援を受けられるのか

今なら大人の発達障害の本もよく目にしますし、インターネットでは発達障害者当人のブログも多数あり、いくらでも具体的な情報を得ることができますが、当時はそうした生の情報を得ることは不可能に近い状況でした。

私はもう、普通学級だろうが特殊学級だろうがどうでもいいから、とにかく私たち夫婦が死んだ後に、娘が安心して生きていける、その確固たる保障が欲しくて仕方ありませんでした。

私や夫が生きている間はいくらでも娘を守ってあげられるが、誰も守ってくれる人がいなくなってしまったら娘はどうなってしまうの?」という不安が払拭されないことには、居ても立ってもいられませんでした。

専門の病院で言語発達訓練を受ける

言語発達訓練その頃、子どもの言語発達障害を専門に診てくれる病院があることを知りました。

そこは、子どもの難病から発達障害まで幅広く診てくれる子ども専門の医療機関。

受診のために遠くから何時間もかけてやって来る人もいますが、幸いなことに我が家からは車で15分程度の近距離にありました。

早速電話で問い合わせてみたところ、そこの「言語聴覚室」というところで、言語発達遅延の子どもに対し検査や訓練をおこなっているとのこと。

言葉は出始めてきましたが、発音が不明瞭で聞き取りにくい娘に打ってつけの病院だ!と思った私は、すぐに受診しようとしましたが、その病院は紹介状が無いと診てくれないということでした。

そこで、掛かり付けの小児科を訪れ、どうしてもその病院の言語訓練を受けたいという話をしました。

その小児科医は、療育センターのことも以前からあまり良く思っておらず、「言語訓練などやる必要があるのか疑問だ。時期がくればちゃんと話せるようになるから大丈夫」と、難色を示していましたが、私があまりに悲痛な面持ちで訴えるので、最後には根負けしたのかしぶしぶ紹介状を書いてくれました。

結論から言うと、その言語聴覚室での訓練はあまり娘には効果がありませんでした。

全部で4~5回は通い、専用の狭い部屋で聴覚をテストしたり、発音の訓練をしましたが、娘の発する言葉に目ぼしい変化は現れませんでした。

それでも、こちらは藁にもすがる思いで、少しでも効果のありそうなことを試せただけでも良かったと思いました。

「発達障害児も成長していく」という当たり前の事実を知る

「発達障害児も成長していく」という当たり前の事実を知る右往左往を経て、来年はいよいよ小学校へ上がるという時期に、「普通級」「通級」「支援級」のどこに属するのかを決めるテストを受けることになりました。

特別支援教育センターで面談や検査を行い、その子に合った学級を判定してもらうのです。

療育センターで同じクラスの生徒も全員そのテストを受けました。

夫も会社を休み、親子3人で教育センターへ行きました。

面談と試験をおこない、最後は広いプレイルームで先生の指示に合わせて、体操をしたりおもちゃで遊んだりしました。

この頃の娘は、普段は保育園に通っており、以前ほど他人を拒絶することはなくなっていました。

積極的にお友達と打ち解けるわけでもなく付かず離れずといった感じですが、何とか無難に集団生活を送れるようになっていました。

私は、プレイルームで無邪気に遊ぶ娘を見ながら、「今この瞬間の様子も判定されているんだろうな」とハラハラしながら見守っていました。

子どもたちはその部屋で遊んだまま、親だけが別室へ呼ばれました。

いよいよ判定結果の通告です。

先生から発せられたのは、あまりにもあっけらかんとした言葉でした。

「まぁ、普通級で問題ないでしょう!」

一瞬、耳を疑いました。

これまでどこへ行ってもスムーズに行った試しがなかった娘が、こんなにすんなり普通級と判定されるなんて、いったいこれは現実なんだろうか?と。

信じられないような気持ちで「本当ですか?本当に普通級で大丈夫なんでしょうか?」と聞くと、「今日の様子を見ている限り、ほぼ問題ないでしょう」との答え。

普通級に行けることは確かにうれしいことですが、それより何より、普通級に行けるレベルにまで娘が成長していたのだという事実を、今やっと客観的に確認できたことがいちばんの喜びでした。

最後にお伝えしたいこと

虹 芽私のこれまでの経験から、皆さんにお伝えしたいことは下記の4つ。

  • 診断されたからと言って、不安になり過ぎないこと
  • どんな支援が受けられるのか、とことん調べて利用すること
  • 書籍やンターネットなどを利用し、情報を集められるだけ集めること
  • 障害児も成長していくこと

今はインターネットで瞬時に情報を集められる時代です。

もちろんインターネットの情報がすべて正しいわけではありませんが、実際に発達障害を持ちながら社会人として活躍している人の話は非常に参考になると私は思っています。

私がいちばん苦しんだことは、娘の特性より、娘の将来を悲観し、悪いことばかりを考えて絶望してしまうことでした。

さまざまな情報を通して、子どもの未来を少しでも具体的に見通すことができれば、抱える心理的負担は最小限に抑えられるのではないでしょうか。

もし当時、今のようなインターネット環境があれば、私はそこまで酷く落ち込むことなく、娘にももう少し余裕を持って接することができたのではないかと思います。

もうひとつ大切なことは、「障害がある子どもも成長していく」ということです。

私はなぜか、障害があると分かった瞬間から、今の娘の状態がこのままずっと続いていくかのような錯覚に陥っていました。

いつまで経っても言葉を話さず、癇癪ばかりの娘を見て「こんな状態で社会で生きていくなんて無理に決まってる」と悲観していたのです。

でもそんなことはありません。

たとえ発達の速度は遅くても、コミュニケーション力も社会性も、ゆっくりとその子なりのペースで成長していくのです。

そんな当たり前のことにようやく気付きました。

「親がいなくなったあと、この子はどうなってしまうのだろう?」という不安に対し、今の私ならこう答えます。

「子どもも大人も生きている限り成長していく存在。成長の段階に合わせた支援を受けながら、社会との接点を絶やさずに生活をしていくことで、道は自然に開けていく。」

健常者ですら、皆なにかしらに苦しみながら人生を生きています。

生きるというのは本当に大変なこと。

発達障害児(者)にとっては、いっそう悩みが深く苦しいことかもしれません。

でも、そんなに悲観する必要はありません。

女の子困っている人に差し伸べられる支援の手は、日本には思いのほかたくさんあるのです。

不安を払拭するためには、とことん調べて知識を得ること、行動することが必要です。

いくら心配したところで親ができることには限りがあります。

その先の人生は、子ども自身が悩んだり迷ったりしながら、これまで身に付けたことを武器に、手を借りたり貸したりしながら自分の足で歩んでいくものなのです。

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