大人になるまで知らなかった“僕のADHD”~ただ、少しずつ、少しずつ覚えていった

ADHD

 

牛乳瓶が割れた日

給食の牛乳瓶を、手を滑らせて割ってしまった。

何十本も。

人一倍、注意力が散漫な僕の、初めての大きな失敗。

パニックになった僕は、走って校庭に逃げた。

桜の木の下でうずくまる僕を見つけた先生は、背をかがめて僕と同じ目線の高さへ。

「どうする?ここにいる?それとも教室にもどる?」

怒られるとばかり思っていた僕は、驚いて先生の顔を見た。

「もどろっか」

そう言って、先生は優しく微笑んだ。

それは、いつまでも忘れることのない、小学校1年生の思い出。

忘れ物の王様

ADHD「あんたは、みんなと違う……」

小学4年生。

担任の先生はそう言って、小さくため息を吐いた。

僕の手には、30枚もの忘れ物カードがにぎられていた。

忘れ物カードとは、授業につかうものを忘れるたびに書き込むカードで、1枚のカードに10個の項目が書けるようになっている。

30枚、ということは300個の忘れ物をしたということ。

僕以外では10枚はおろか、5枚をこえる生徒だって、ひとりもいなかった。

「あんたは、みんなと違う……」

先生の厳しい指導は、書き方の授業時間をぜんぶ使って行われた。

帰り道、僕はいつもそうするように、町をぐるり一周してから帰った。

子どもの足でも2時間あれば一周できる、小さい町。

「どうすれば忘れ物をしなくなるんだろう」

その日、僕は歩きながらそればかりを考えた。

いつもなら日常とは関係のない空想をしながら歩く道を、ずっと忘れ物のことを考えながら歩いた。

ADHD連絡帳には、明日の授業で必要なものがすべて書いてある。

それを見て準備をすれば忘れない。
当たり前のことだ。

けれど、僕は忘れる。

正直、その時に頭がどういうふうに働いていたかは覚えていない。

ただ、きちんと連絡帳を見ながら準備をしても何かしらを忘れてしまうし、連絡帳を書き間違えていることだって多かった。

コンパス、分度器、書き方ノート、雑巾、教科書にノート、地図帳、宿題。

「どうしてそんなに忘れ物をするの?」

先生の質問は、そのまま僕の疑問だった。

答えは僕の中にも、誰の中にもなかった。

しいて言えば先生の言った、「あんたは、みんなと違う」という言葉が答えだったのかもしれない。

そう当時の僕には思えていた。

担任の先生の指導は、今の時代ではなかなか考えられないほど手厳しかった。

だから、僕はそのたびに「もう二度と忘れ物はしない」と心に誓った。

けれど、その誓いは翌日には破られた。

家につくと、母は僕のランドセルを開けてプリントがないかを確認する。

渡さなくてはいけないプリントを渡さないことを知っているから。

ちなみに、母は通信簿に書かれた、「忘れ物多し」の一文でしか、僕の忘れ物の状況を知らない。

忘れ物カードを30枚もためこみ、「忘れ物の王様」という不名誉な称号を先生から与えられていたなんて、知らなかったのだ。

僕はひどく無口で、学校であった出来事を家で話すというようなことは無かった。

先生が言わないかぎり、僕の不名誉な称号が母に伝わることはなかった。

先生は、言わなかった。

理由は、正直あまり考えたくない。

なにより、憶測でここに書くような内容でも、きっとない。

僕を、見ないで

一人でならきちんと出来ることが、人に見られていると出来ない。

それだけなら、きっと、多くの人が共感できる感覚だろう。

体育の授業、レクレーションのドッジボール、理科でのグループ実験、向かい合っての似顔絵製作、僕は出来るかぎりそうしたものから逃げた。

保健室はもちろん、使われていない無人の活動室やトイレの個室。

とにかく逃げ回っていた。

ADHD見られるのが、嫌だった

見られるのが、怖かった

小学校四年生の夏、校外での球技大会が開催されるという発表があった。

校外での行事ということもあり、保護者の観戦やお弁当の用意など、運動会レベルの大きなイベントになると校内は色めきたっていた。

球技大会の前日

どうしても行きたくない僕は、前日に母にその旨を告げた。

「どうして行きたくないの?」

母は不思議そうに僕に尋ねた。

ADHDどうして行きたくないのか、僕は答えられなかった。

自分でも、上手く理解していなかったのだ。

人に見られることで感じる「とにかくすごく嫌だ」という感覚を、どんな言葉で伝えればいいのか当時の僕にはわからなかった。

母は不思議そうな顔で、僕の答えを待っていた。

それから、ずいぶん時間がたってから、僕は答えた。

「怖いから」

その言葉を聞いた時の、母の反応は覚えていない。

僕は、何か自分が言ってはいけないことを言ってしまったという感覚にとらわれて、頭の中が真っ白になっていた。

たぶん、それが異常なことだと、何となくわかっていたんだと思う。

「あんたは、みんなと違う……」

みんなが楽しみにしていることを怖がる。

それは異常なことで悪いことなんだと当時の僕は感じていた。

だから、ずっと隠していたその感覚を、母に伝えてしまったことで、頭の中が真っ白になってしまっていたのである。

言ってはいけないことを言ってしまった。
自分が異常だっていうことを、言ってしまった。

球技大会当日の朝

ADHDそうして、球技大会当日の朝。

母に相談されたであろう父が、僕に話しかけた。

「怖いっていうのは、どういうこと?」

僕は黙って下を向くだけだった。

学校でも家でも無口だった僕は、いつもそうするように、ただ黙って時間が過ぎるのを待っていた。

「それって気持ち悪いけどなあ、でも行きたくねえならしょうがねえや」

父はそう言って新聞を読み始めた。

相変わらず黙り続ける僕に、父は新聞を読みながら言った。

「家にいていいから、朝ごはん食べろよ」

僕は、うん、とだけ答えて朝ごはんを食べ始めた。

「それって気持ち悪いけどなあ、でも行きたくねえならしょうがねえや」

その時の父のこの言葉を、僕はしつこく記憶している。

無理にでも行かせるのが親としての正解だったのか、あるいは、とことんまで感情を聞き出すのが正解だったのか、僕には全然解らない。

ただ、「気持ち悪い」「でもしょうがない」……この言葉が、大人になった今でも僕の心でずっとずっと機能している。

気持ち悪い感覚だけど、でもしょうがないもんはしょうがないんだ。

この瞬間、僕は自分が異常だということが悪いことではなく、どうしようもなくて、しょうがないことなんだと認識した。

それは、今でもずっと続いている。

右を向いているときに左を向く子

僕が成人した年の正月、兄弟と両親みんなが集まっての団欒。

賑やかな演芸番組も一段落し、食卓は兄弟達の子ども時代という話題で盛り上がった。

ADHD明るく陽気な父と、同じく明るい兄が、お酒で頬を赤らめながら幼い頃の笑い話を展開する。

姉二人も笑いながら話題に参加する。

僕は、話題には入らずに、ずっとみんなの話を聞き続けた。

無口な僕はいつでも家族の会話には、「ひたすらずっと聞く」という参加のしかたをしていた。

いつしか話題は、末っ子である僕が成人したことへの驚き、といった具合になった。

そうして、父がふいに言った。

「こいつは、みんなが右を向いているときに左を向く子だったからな、まあ目立つ存在だったろうよ」

家族たちが、その言葉にうなづく。

僕は、少し驚いていた。

そんな自覚はなかったからだ。

けれど、思い起こしてみれば、すぐにわかった。

忘れ物の王様で、人に見られるのが嫌で団体行動を避けていた。

みんなが楽しく話しているときもひとりで黙り、人が当たり前にできることが出来なかった。

考えることといえば現実離れした空想ばかり……。

みんなが右を向いているときに左を向いていた、という自覚が薄かったのは、母も父もそのことを指摘しなかったからだろう。

26歳になったころ

ADHDそれから時がたち26歳になった頃だった。

僕はいつのまにか見つけた漫画家になるという夢を叶えた。

数年ぶりに実家に帰った僕を、父は車に乗せてこんなことを言った。

「お前にはちゃんとした教育をしてやれなかったなあ」

そう言って、小さく笑った。

僕は、いつもそうするように、黙ってただ聞いていた。

ちゃんとした教育、というものが一体どういうものなのか、今でも僕はわからない。

父の言葉の真意もわからない。

わかることは、僕は幼い頃からずっと父に「こうしなさい」と言われたことはなかったということ。

いつも僕は、ずっと家族の話を「聞いて」いた。

なんてことない母と父の会話、食卓でテレビに対して父が言う感想。お酒を飲みながら陽気に語る過去の話、親戚達との集いで交わされる、愉快な話。

「こうしなさい」と言われることのなかった僕が受けた教育というのは、きっと両親の会話や言葉を「聞くこと」だったのだな、と今は思う。

そして何より、人に見られるのが怖いから球技大会に行きたくないという、幼い僕のワガママに対して言った、
「それって気持ち悪いけどなあ、でも行きたくねえならしょうがねえや」
という言葉。

ちゃんとした社会生活を目指して

大人になり、何年も仕事もせずに過ごした僕は、アルバイトを始めて数々の失敗をした。

少しの期間だけ漫画家になった時も、大人らしいきちんとした判断や行動ができずに長続きしなかった。

ADHD会社に就職しても、人並みはずれた注意力の欠如を責められたりもした。

そうして、いつのまにか人に見られる恐怖も薄れ、散漫だった注意力も少しぐらいは解消した。

忘れ物の王様という称号も、忘れ物の大臣程度にはなった。

右を向くことを、少しくらいは覚えたということかもしれない。

その方法を、具体的に誰かに教わったわけではない。
ただ、少しずつ、少しずつ覚えていった。

牛乳瓶を割ってしまった日、先生は怒らなかった。
僕の他人と相容れない心情を、父はしょうがないという言葉で肯定した。
母はただ優しく、今でもずっと僕を気にかけて心配しつづけてくれている。

父曰くちゃんとした教育をされなかった僕は、何とかかんとかちゃんとした社会生活を目指して、今でも頑張っている。

首が自然と左に向いていても、なんとか目線だけは右に向けながら。

ADHDを知った日の驚き

印刷会社の営業として大阪の街を駆け回っていたある日、唐突に僕はその言葉と出会う。

「子どものね、ADHDに悩む親御さんの話を聞いたりするのよ」

ADHD営業先の社会福祉施設の担当者の言葉。
僕は、ADHDって何ですか?」という素朴な疑問を口にした。

そうして説明を聞いて、僕は自分がADHDを持ちながら子ども時代、青年時代を過ごしていたということを知った。

どうしようもない、いわば厄介な個性という風に自分の中で片付けていたものに、きちんと名前がついていたという事に、僕は驚いた。

程度の差はあれ、ADHDの子どもを持つ親達は悩んでいるし、教師達も同様に悩んでいるという事は多いと教わった。

治療するための具体的なメソッドもあるけれど、症状も治療に対する反応も千差万別なので難しい部分も多いという。

「しょうがない」という言葉で肯定されて、ほとんど野放し状態だった僕は、治療という言葉にも驚いた。

一概には言えないかもしれないが、その時の僕の素直な驚きというのは「忘れ物の王様」ではなくて「ADHDの四年生」が正しかったのかということ。

自分が当事者であったという驚きもあり、僕はそれからADHDについて調べたり、その施設の担当者とも色々と話をさせていただいた。

子どものADHDと親の悩みや、大人のADHDと社会生活の折り合いなど、そこにはたくさんの悩みがある。

僕は大いなる共感を覚えそれらの知識をたくわえていった。

親の肯定と社会の荒波

ADHDADHDの治療や、実際に悩んでいる方々の話などを聞くと、僕は途方にくれた。

共感を覚え、不思議な感覚を抱いたからだ。

誰でもそうかもしれないが、僕自身にも思い出したくないほど辛い出来事は、いくつかある。

「どうしてできないんだろう」

という疑問と悔しさを何回も感じた。

親は僕のADHDを、いわば個性という風に僕に伝えた。

社会はそれを、不要なものだと僕に厳しく伝えた。

肯定と否定、優しさと厳しさ。

その狭間の中で、僕は少しずつ自分と社会との折り合いをつけていった、という感じだ。

辛い出来事もたくさんある中で、それでも腐らずになんとか前進できたのは・・・
僕のダメなところを、両親は、とりわけ父は具体的な言葉で肯定してくれたからじゃないだろうかと、今の僕は考えている。

しょうがないことなんだ、と思いながらも、社会に合うよう自分の形を整えていくことが僕には出来た。

ADHD
それが正しいことなのかどうかは、わかりません。

けれども、僕は、元気にやっています。

少しずつ、少しずつ・・・

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